宝満の池と赤米。
伝説の池、宝満の池で赤米を持つ古老。赤米は茎が長いのでここの地名を茎永(くきなが)というと言われる。
赤米の祭り。
宝満神社お田植え祭りの日、お田の森では、このようにして、赤米(あかごめ)を供えて祭りが行われる。
赤米のお田植え舞い。
宝満神社の舟田に、赤米をてにして舞う社人(しゅにん)夫妻。
<苗取り拍子>
イヤ九石(くこく)まきのおん苗を、イヤ聟(むこ)も出て取ろよ
イヤお苗取りというなれば、イヤいつ取るともでておじゃれ  ・・・・・
赤米のお田植え。
4月初旬、お田植え歌に合わせて宝満神社お田植えが行われる。
<お田植え歌>
峰の若松さがり枝、飛びつくばかり思えども他人(ひと)の妻など眼でみてしめておきやれ エイトーナー、エイトーナー、エイトー、エッシイ、エイトーナー
マブリ。
宝満神社お田植え祭りののち、お田の森の前で、ムシロを敷き、シャニンの葉にニギリメシ、ニシメを盛り、直会(なおらい)をする人びと。
この行事をマブリという。
お田の森。
田んぼの中の小さい森を、お田の森といい、宝満神社のお田植え祭りには、田の神を勧請して赤米を祭る。
<カーゴマー>
祝い申す、これから申す、門から申す、この家、家は、裕福舞いの家と見かけ申すよ、ましてこの家祝うておじゃるろうから祝い申すよ、九十九階の蚕(こ)の宮城(みやじょう)を廻しますさきは、綾をはえ錦をひろめ、ヤーラ、ランラと、とくとふませて、これより東の朝ひら峠のケンケ(雉)鳥のメンドリの右のオドリ羽根、左の風切り、おっとり合わせて、一羽根がいですくえば千枚すくう、一羽根がいですくえば二千枚すくう、三千枚の蚕種(こたね)をよせよ集めよ、アリ児になるときゃ、アイライライと申す、ツブレになるときゃ、ツルツルと申す、フシ児になるときゃ、ハジの舞いを召す、長雨になるときゃ、雨桑(あまか)もきらわず、露桑(つゆか)もきらわず、赤まゆ白まゆかがせ給うれ、そのまゆの固さは天河原(あんまがわら)の石よりも固うござる、どの駒か春駒の勇む如くに、夢に見てさや、ものゆきものよ、母女(ははじょ)さまかよ娘女かよ、町(ちょう)のお祝いお通りやれ
蚕舞い(カーゴマー)。
正月14日から15日にかけて、男が女装し白頭巾を被って各戸を訪れ舞いをする。(平山)

石塔祭り。
盆の15日、南種子町広田では、石塔祭りが盛大に行われる。
大棚を組み粽や水の子など上げて共同祖霊を祭る。
マキと札。
広田では、盆の石塔祭りの日、各戸からのこのような品物をソーケに入れて行く。粽、札、線香、米などをいれてある。



祭り棚。
石塔祭りの日、同族ごとの小棚が設けられマキをとなえる。
マキ(粽)
盆には必ずマキを作って精霊に供える。これは、石塔祭りに供えたマキを寺に運ぶ広田の人たち。

広田。
昔からある古い部落で、東西に防風林がある。森の中には、ガラン神を祀ってある。
南種子町 上中(かみなか)
中央の建物は中平(ちゅうへい)小学校。左の街路は、共栄通り。上中は明治以降できた町である。

上中。 中種子町 野間。
西之表。 西之表市街地。
やくしま丸(西之表港)
鹿児島と種子島を結ぶ屋久島丸(1,150トン)。当時はこのほか藤丸も就航し1日1往復している。
ヘロン機(種子島空港/中種子町野間)
鹿児島空港から35分、1日6往復していた。
●昭和の種子島と題し、今回は、私の両親の出身である茎永・平山について紹介しました。(引き続きこの他の種子島についても掲載したいと考えています。)
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昭和の種子島
このページでは、昭和44年2月刊行の「タネガシマ風物誌」の中から貴重な種子島の写真等を紹介したいと思います。
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